実業補習学校
日本資本主義の発展を背景に、「実業に従事しようとする児童に対し、小学校教育の補充と、職業に関する簡単な知識技能を授ける」という目的で、1893年(明治26)「実業補習学校規程」に基づいて設置された学校。尋常小学校卒業以上が対象。修業年限は普通2年で小学校に付設された。授業は夜間2時間だったが、農閑期には昼間も実施された。1920年(大正9)には規程が、「職業教育と公民教育をもって目的」とするに改正された。
実業補習学校
年 度 学校数 学級数 教 員 生 徒 数
1911年(明44) 1 2 7 54
1912年(大元) 7 8 23 188
1919年(大 8) 107 505 629 15716
1925年(大14) 119 444 680 12769
1917年(大正6)4月、中頭郡役所から中城村の各字「青年補習教育会」へ補助金が交付されている。
瑞慶覽(5円)、喜舎場(5円)、熱田(5円)、津覇(5円)、久場(5円)、屋宜(5円)、島袋(3円)、泊(3円)、当間(5円)、新垣(4円)。
(安里永誠)
学事奨励会
戦前、学校の春休みの頃、各字では学校職員や字の役員、児童やその保護者が集まり学事奨励会が催された。その時、1か年の学力や出席状況についての報告があり、来賓の激励のあいさつの後、賞品(ノート、鉛筆)が児童に授与された。また、学校での朝会の時、毎月1回は字別の出席状況の成績発表があった。字別等位の札が職員室の外壁に揚げられたので、字の成績を悪くしないようにと、体調のすぐれない子にも無理して登校させる弊害もあった。
各字毎の学事奨励会は、戦後の1960年代まで盛んに行われていたが、いつの間にか大半消えてしまった。
本村の学事奨励会の起源は、1907年(明治40)3月、字島袋出身の喜納昌松氏が、亡父亀助氏の遺言により、喜舎場校に20円、中城・津覇校に夫々10円を学事奨励金として寄付したことに始まる。学校は、その遺志に感謝して、学区毎に学事奨励会を設立したという。なお、初代村長大田為淳氏(仲順)は三校に夫々7円、比嘉昌輝氏(喜舎場)は喜舎場校に15円、仲村渠榮保氏(大城)は、卒業式に皆出席者(後に学業優等)に賞品を与えている。その他多くの有志が、学事奨励のため物心両面から協力している。
学区学事奨励会活動の例として、1910年(明治43)、中城尋常高等小学校では、9月1日と1月6日の始業式、そして3月の卒業式の時、皆出席・学業・操行について優等な生徒に賞品を授与した。当時、中城校の学事奨励会の基金は530円だった。喜舎場校の学区学事奨励会は明治41年設立された。活動としては、毎学期、字毎の出席や学力の成績により賞品を授与していた。中等学校卒業生にも硯箱等の賞品を贈っている。また、中等学校、大学生にも学費を貸与するようになった。津覇校の学区学事奨励金は、明治44年頃800円余に達していたという。
各字の学事奨励会の始まりは、1910年(明治43)頃と思われる。その年結成された中城村青年会の主な事業内容は、農事や学事の奨励、風俗改良等となっている。各支部(字)もまもなく結成され活動を開始している。
例を挙げると、1910年11月に渡口青年会が学事奨励会を催している。大田村長、喜舎場校職員をはじめ、字民150人余が参加して、学力・出席優良の児童36人に、学業熱心な児童一四人に賞品を与えた。中等学校入学者三人には奨励金を授与している「琉球新報 明43・12・10」。村内の他の字の青年会も、明治の終りから大正3年頃まで盛んに学事奨励会を催している。
各学校区の学事奨励会は、去る大戦で消滅してしまった。北中城村では、伊佐常喜氏が亡母の香典返しを村に寄付してあったので、それをもとに1953年に「北中城村貧困児童就学奨励積立基金規程」を定めた。
戦争で多くの人材を失った村は、戦前の教育村を目差して人材育成を目的として村育英会を設立した。2002年現在、基本金1億740十万円、設立以来の貸与生206人、貸与額は、毎月、県内大学3万円、県外大学と外国留学生4万円、大学院5万円となっている。
(安里永誠) |