◆ 北中城村の屋取◆
屋取の起源についての明確な史料は少ない。その研究は、伊波普猷が先駆をなし、その研究成果は、「沖縄県下のヤドリ」(『琉球古今記』に所収)として大正十五年に世に出されている。伊波は、屋取の語源を「宿る」に求めている。首里、那覇の貧乏士族が田舎に下って、そこに宿ったことからきているとする。仮住まいの生活が漸次定着して集落化が進んできたという。伊波普猷は、屋取形成を次の四つの時期に分けて考察している。
第一次屋取 二〇〇年前
第二次屋取 一〇〇年前
第三次屋取 四〇年前
第四次屋取 十数年前
この年数は、大正十五年からの推定であるので、今日からは、現在までの年数を加算すればよいことになる。
本村に屋取ができたのがいつなのか、悉皆調査がなされてないので、明確には分からない。屋宜原、大平(瑞慶覧)、石平集落で、古くは五代前にその地に移住してきたと聞けるので、一代を三十年としたら、伊波のいう第二次屋取形成のころが考えられよう。
本村内の屋取は、喜舎場、渡口、瑞慶覧、安谷屋、荻道、大城に形成された。喜舎場には、ヒニグシク山の北側、喜舎場こし原に屋取が作られた。現在の屋宜原である。その屋取は、大正六年に字屋宜原として行政上独立している。地籍の分離は戦後である。『沖縄県史』(二十巻)には、明治三十六年の喜舎場の士族の世帯数と人口が、三十三世帯、二〇四人とある。当時、喜舎場集落内には士族が一軒あったといわれるので、それを除いた数が屋宜原の世帯数と人口であろう。
渡口には、奥武下原に奥武屋取の八世帯、後原に新島屋取の二世帯、中原と前原のメンター屋取の六世帯、前原のンマイー屋取の六世帯があったといわれる(昭和十九年のころ)。
瑞慶覧には、大平原に大平屋取二十六世帯、仲山屋取の二世帯、西原に板原屋取の二世帯、前原に前原(または石平)屋取の十世帯があった(昭和十六年から十九年ころ)。
石平屋取は、中城村(現北中城村)、宜野湾村(現宜野湾市)、北谷村(現北谷町)の境界附近(瑞慶覧の前原、安谷屋の西原、下川原、北谷村の北前)に散在し、行政区としての石平の分立は、昭和三十一年である。
安谷屋には、西原、下川原に石平屋取の二十八世帯、樋川原に稲福・仲宗根屋取の四世帯、上原と荻道の亀甲原に大湾小(真栄城小)屋取の六世帯があった(昭和十六から十九年ころ)。
大城の東原には、大山小、名幸小、天願等の屋取が散在していた。
居住人は、ほとんど首里系である。那覇から移住した人はわずかである。首里系の居住人でも直接当屋取に寄留したのは少なく、ほとんどが他の間切に移って、その次男三男が当屋取に移る、間接的な居住をしている。比較的に早い時期に移住してきた氏系では、例えば、屋宜原では陳氏(浦崎家)、葉氏(伊集家)、大平では麻氏(渡嘉敷家)、石平では那氏(新垣家)などがある。
(大城盛光)