忠魂碑は天皇に忠節、忠義を尽くして戦死した者の忠君愛国の魂を慰め、その事跡を顕彰するために建立された碑である。旧中城村の忠魂碑は、中城城跡の二の郭に建つ。大正四年二月に建設されている。その時代は、内務大臣の通達で一市町村一基であったので、村内唯一の忠魂碑である。同碑の法量は、次の通り。
高さ二五六センチ、幅五一センチ、厚さ十二センチ。碑の材質は、微粒砂岩。基壇は、琉球石灰岩の切石積み(幅三メートル、高さ一・二〇メートル、奥二・五〇メートル)、台座も琉球石灰岩の切石積み(二段構え)。当初は玉垣で囲われていた形跡がみえる。
表の「忠魂碑」に対して、裏文は、日露役(日露戦争)での戦死者五名と日独役(第一次世界大戦)での戦死者一名の兵役での階級、勲等級、氏名が刻されている。裏面の上部には、日本の軍隊を象徴する星印の☆が彫り込まれている。側面には、石工の石塚喜左エ門の名も記されている。裏面に記された戦死者は次の通り。
日露戦役での戦死者:故陸軍歩兵軍曹勲七等功七級 浦崎政得君。故陸軍歩兵上等兵勲八等功七級 仲村渠喜保君。故陸軍歩兵上等兵勲八等 平安名常照君。故陸軍歩兵一等卒勲八等 瀬名波佐賀君。故陸軍歩兵一等卒勲八等 比嘉武太君。
日独戦役の戦死者:故陸軍歩兵上等兵勲八等功七級 嘉陽三郎君。
建立者は中城村在郷軍人並有志者と刻まれている。
忠魂碑の建立については、すでに 明治四十一年に中城村在郷軍人会において忠魂碑建設の発議がなされている。(「琉球新報」明治四十一年八月二十七日)。在郷軍人会が日露戦後、いち速くたち動いたのは、内務省から、日露戦中(明治三十七年)に国家に功績あったものや称揚すべき事績のあったもの顕彰を慫慂する通達があったり、建碑の許認可が県知事に委ねられていて建立し易い状況にあったからであろう。大正四年の建立は、沖縄では早い時期の建碑である。(吉浜忍氏「忠魂碑」〈琉球新報〉平成十四年十月七日)。忠魂碑は単に戦死者の記念碑に止まらず、招魂碑としての機能も合わせ持っていたようだ。中城村(旧)は、中城城跡の忠魂碑の前で同村出身戦死者の招魂祭をしばしば開催していたといわれる。あるときには、招魂祭に海軍少将漢那憲和氏の参列のもとに招魂祭が行われたこともあったと伝わる。村出身の戦死者の葬儀を忠魂碑の前で村葬として執行したりしている(「大阪朝日」昭和九年三月二十四日など)。昭和十年代に入ると、出征兵士は、武運長久を祈って、城跡の忠魂碑を参拝して出発するようになっていた。
因みに、忠魂碑の石材は、同村渡口のメンタ橋に架け渡してあった二つの細粒砂岩(クルトゥ石)のうちの一つであるという(宮城盛輝氏談。建立当時氏は役場吏員)。今一つは、渡口集落の、太平洋戦争戦没者を祀る慰霊塔に利用している(昭和三十四年建立)。
(大城盛光) |