村史「新聞資料編より」 コラム
馬場・競馬
旧中城村では、馬場は、喜舎場、和仁屋、島袋、瑞慶覧、津覇、当間の集落と中城グスクの東側にあったことが、その跡地、記録、伝承によって確認できる。喜舎場の馬場は、喜舎場小学校の北側隣の道路が馬場跡とされる。幅一五m、長さおよそ二百mもあったという。馬場の東側にアシビナーがあり、村芝居用のバンク(舞台)もあったそうだ。明治時代末にはすでに馬場としての使用はなかったという。島袋馬場は、現集落の東側、上原山にあり、幅一五m、長さ二百mほどあり、左右に松も植えられていたという。大正時代には馬場としての使用はなかったようだ。現在道路としてわずかにその形跡がうかがえる。
沖縄県統計書(明治十三年現在)には、中城間切の馬場として、次の四か所が記されている。(カッコ内は、幅と長さ。単位は、メートル法に改める)。
津覇(一三m・一六四m)、当間(一五m・二四八m)、和仁屋(一一m・一五三m)、瑞慶覧(一八m・二五〇m)
津覇の馬場は、現津覇小学校の山手、上津覇山にあって、大正時代末ごろまで使用されていたという。現在、原野になっている。
当間馬場は、農業協同組合の裏手、高江洲屋取の近くにあったが、現在、畑になっていて、馬場の片鱗さえ見えない。馬場の左右に松林が見られたそうである。明治三十六年の土地改正(トゥチカイシー又はジーワィ)のときに畑に改変されたといわれる。
和仁屋馬場は、集落の前方、現在の国道三二九号を斜めに交わるように東北に延びていたが、さる大戦後、ほとんどが畑に変えられたという。ンマハラシー(競馬)は、旧八月十一日祭り(ジュウイチニチー)に行われ、終了後に角力大会も催されて、その日は、泡瀬をはじめ八方から観客が寄り集まり、夜店もたち、賑わったと伝わる。
瑞慶覧馬場は旧中城村ではスケールの大きいものであった。左右には二抱えほどの並み松が整然と植わってあった。東側に闘牛場も設置されてあった。アブシバレーや旧五月五日に競馬が行われ、遠方からも参観者が集まり、にわか市もたち、はなやいだといわれる。明治・大正期には、全沖縄競馬大会、中頭郡の学校対抗運動会、中城村の原山勝負の差し分け式(現今の産業共進会)等もこの馬場で行われている。差し分け式後は、競馬と角力が開催されている。競馬は、昭和初期で終わっている。馬場はさる大戦後も保存されていたが、米軍に基地接収され、跡形もない。
中城グスクの東側にできた記念運動場においても原山勝負の余興として競馬が行われていた。馬勝負の競技は、ヰシバイ(並み足)を競ったという。全力疾走するカキバイではなく、両側の足を交互にかえての並み急ぎ(小走り)である。いかに美しく調子よく並み足で走れるかを勝負する。足並みを整えるために事前に調子乗り(クーヌイ(小乗り))をし、馬場を数回まわって調子が整ったら、二頭で競う方法であった。
明治・大正・昭和初期のころは、春秋の原山勝負の余興として競馬が行われていた。その後に角力、ところによっては闘牛の行われたところもあった。
(大城 盛光)
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