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 小・中学生が書初め
 一月十四日、村総合社会福祉センターで、村父母教師会連合会主催の書き初め大会が行われました。連合会では、「大会を通して、より多くの児童・生徒に新年を迎えての新たな決意や希望にあふれる気持ちを筆で表現させることにより、習字に親しみ情操を豊かにし、書道の技術に役立てる」ことを目的にしています。今大会には、例年より多くの小・中学生一三〇人余が参加し、新年の決意や気持ちを筆に込め熱心に取り組みました。作品は、一月一六日から二十日まで村立中央公民館で、一月二十三日から二十九日までは、村役場第二庁舎一階ロビーでそれぞれ展示し、村民に広く紹介しました。
保護者会が餅つき大会
 一月二十二日、屋宜原保育所(喜屋武千代子所長)で、保護者会(本村忍会長)が主催する「餅つき大会」が行われました。日曜日の開催とあって、五十世帯、百人を超す参加者。いつも賑やかな保育所がさらに賑わいました。大人も子どもも賑やかにぺったん、ぺったん。「わたしも早く餅つきしたいな〜」と列の後方から首をなが〜くして順番を待ちわびます。杵を持つ我が子を「いいよいいよ上手だね」と声を掛けながらシャッターチャンスをしっかり捉える保護者。つきたてのお餅は、きなこをまぶしたり、大根おろしに絡めたりと食べ方もいろいろ。中でも、人気のあったのは、きなこ餅とあんこ餅でした。あ〜美味しかった。

子どもが楽しそうに餅をつく様子にカメラを

第6回老連ボウリング大会

新年の集い・老人クラブ連合会

 男性44人、女性35人が参加したボウリング大会を村内のボウリング場で1月27日に開催しました。
優勝:男性・我那覇 実さん(島袋)女性・伊佐スミ子さん(和仁屋)
 90歳の喜納徳賀さん(熱田)も元気に参加しました。
 新春を寿ぐ新年会を1月17日に村立中央公民館で開催。いつもより念入りにおしゃれをして余興を楽しみながら今年も元気に過ごしましょう。
先進事例に学ぶー行政改革講演会
  村では二月十日、福島県矢祭町自立課自立グループ長の高信由美子さんを招いて「矢祭町の行政改革について」職員や議会議員自治会長等を対象に講演会を開催しました。 矢祭町は、平成十三年十月の町議会臨時会で議員発議により「市町村合併をしない矢祭宣言」を全会一致で決議し、平成十五年に行財政改革がスタート。平成十七年を「自立元年」と位置づけ、職員の定年退職者不補充、議会議員の定数削減等で人件費を削減、各種補助金、負担金の削減による歳出の抑制、企業誘致による財源を確保等の行財政改革を実施。役場職員の自宅を出張役場としたほか、フレックスタイムの導入など、町民と行政が一体となった協働による行財政改革を推進している状況が紹介され、本村の行政改革の推進に示唆を与える内容でした。

新春ボウリング大会・村商工会(建設業部会)
熱田漁港周辺を清掃
 1月21日、村商工会・建設業部会(島袋幸得部会長)が組織力強化を目的に「新春ボウリング大会」を開催。23チーム92人が参加し、団体の部でインテリア日装、個人の部・男子は玉城勝秀さん、女子は島袋里美さんがそれぞれ優勝しました。
 2月5日(日)午前9時、北中城村漁業組合と海遊クラブの会員らおよそ50人が熱田漁港に草刈機やごみ袋を手に集合。日頃はなかなか手が回らない職場周辺の清掃を休日を返上して行いました。

村史「新聞資料編より」 コラム

馬場・競馬

 旧中城村では、馬場は、喜舎場、和仁屋、島袋、瑞慶覧、津覇、当間の集落と中城グスクの東側にあったことが、その跡地、記録、伝承によって確認できる。喜舎場の馬場は、喜舎場小学校の北側隣の道路が馬場跡とされる。幅一五m、長さおよそ二百mもあったという。馬場の東側にアシビナーがあり、村芝居用のバンク(舞台)もあったそうだ。明治時代末にはすでに馬場としての使用はなかったという。島袋馬場は、現集落の東側、上原山にあり、幅一五m、長さ二百mほどあり、左右に松も植えられていたという。大正時代には馬場としての使用はなかったようだ。現在道路としてわずかにその形跡がうかがえる。
 沖縄県統計書(明治十三年現在)には、中城間切の馬場として、次の四か所が記されている。(カッコ内は、幅と長さ。単位は、メートル法に改める)。
 津覇(一三m・一六四m)、当間(一五m・二四八m)、和仁屋(一一m・一五三m)、瑞慶覧(一八m・二五〇m)
 津覇の馬場は、現津覇小学校の山手、上津覇山にあって、大正時代末ごろまで使用されていたという。現在、原野になっている。
 当間馬場は、農業協同組合の裏手、高江洲屋取の近くにあったが、現在、畑になっていて、馬場の片鱗さえ見えない。馬場の左右に松林が見られたそうである。明治三十六年の土地改正(トゥチカイシー又はジーワィ)のときに畑に改変されたといわれる。
 和仁屋馬場は、集落の前方、現在の国道三二九号を斜めに交わるように東北に延びていたが、さる大戦後、ほとんどが畑に変えられたという。ンマハラシー(競馬)は、旧八月十一日祭り(ジュウイチニチー)に行われ、終了後に角力大会も催されて、その日は、泡瀬をはじめ八方から観客が寄り集まり、夜店もたち、賑わったと伝わる。
 瑞慶覧馬場は旧中城村ではスケールの大きいものであった。左右には二抱えほどの並み松が整然と植わってあった。東側に闘牛場も設置されてあった。アブシバレーや旧五月五日に競馬が行われ、遠方からも参観者が集まり、にわか市もたち、はなやいだといわれる。明治・大正期には、全沖縄競馬大会、中頭郡の学校対抗運動会、中城村の原山勝負の差し分け式(現今の産業共進会)等もこの馬場で行われている。差し分け式後は、競馬と角力が開催されている。競馬は、昭和初期で終わっている。馬場はさる大戦後も保存されていたが、米軍に基地接収され、跡形もない。
 中城グスクの東側にできた記念運動場においても原山勝負の余興として競馬が行われていた。馬勝負の競技は、ヰシバイ(並み足)を競ったという。全力疾走するカキバイではなく、両側の足を交互にかえての並み急ぎ(小走り)である。いかに美しく調子よく並み足で走れるかを勝負する。足並みを整えるために事前に調子乗り(クーヌイ(小乗り))をし、馬場を数回まわって調子が整ったら、二頭で競う方法であった。
 明治・大正・昭和初期のころは、春秋の原山勝負の余興として競馬が行われていた。その後に角力、ところによっては闘牛の行われたところもあった。   
(大城 盛光)


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