トップページみんなの広場、村史

地域と連携する学校給食


パネルや展示品を興味深く見学する保護者

 村立学校給食共同調理場(山内米廣所長)は、学校給食の意義や役割について児童や保護者の理解と関心を高めようと十一月十五日、村立島袋小学校で学校給食展を開催。「明治二十二年、山形県の小学校で弁当を持って来られない子どもたちのために給食が始まった」と最初に記された学校給食の歴史年表や沖縄県の学校給食の移りかわりがわかるパネルなどを展示。授業参観に訪れた保護者が興味深く見学しました。
 家庭科室では、調理員の楚南兼二さんが「私たちは地域の生産者と連携し、作り手の顔が見える、地元の旬の野菜を使うよう務めている。農薬や食品添加物・遺伝子組み替え食品を使ってない食品を利用している」と地域と連携する学校給食について、調理場の取り組みを紹介しました。

シルバー交通安全ゲートボール沖縄県大会


大会に参加した熱田老人クラブのみなさん

 十一月十六日、那覇市奥武山陸上競技場サブグラウンドで開催された第十八回シルバー交通安全ゲートボール沖縄大会に熱田老人クラブの大城永光さん(主将)ら六人の方が参加しました。沖縄県交通安全協会連合会主催で行われた同大会は、高齢者が関係する交通事故が増加傾向にあることから、高齢者に親しまれているゲートボールを通して交通安全の意識を高めてもらおうと開催。出場選手は、六十五歳以上で各地区交通安全協会から二チームが参加。大会では、県知事賞や交通安全協会連合会長賞、特別賞の他、参加者全員に参加賞がありました。熱田チームの喜納徳賀さんは、八十五歳以上の特別賞を受賞しました。

平田大一さんを招き講演会


元気の出る公演にひきつけられる聴衆

 村婦人会(比嘉洋子会長)が演出家の平田大一さんを招き十一月十九日、村立中央公民館で講演会を開催しました。講演は、「元気の出る話」と題し、平田さんの生まれ故郷・小浜島での家族や地域の人々との関わりをエピソードを織り交ぜて紹介しました。
 『小浜島のおじいの「一人が百人を呼び込むんだよ」に共感した。高校生の頃、先生の反対を押し切って出場した弁論大会で優勝した。先生は反対していたが、真剣に向かい合ってくれていた。なんにでも真剣に取り組んだ十七歳の自分が原点になっている。今でもその頃の自分に問いかけ元気を出している』 
 時折、太鼓や歌、笛の演奏なども取り入れ楽しく元気の出る講演でした。

村少年野球連盟が講演会


興味深く聞き入る親子

 北中城村少年野球連盟は、「のばすジュニアの身体トレーニング方法とケアーについて」という演題で十一月二十日、村役場で講演会を行いました。講師は、パフォーマンスコーディネイト代表の宜野座康秀氏。宜野座氏は、SOLA沖縄の非常勤講師でもあり、柔道の井上康生選手の専属トレーナーやプロ野球選手の自主トレのアドバイザーとしても活躍されています。講演は、これまでの経験を活かし、スポーツでの心のケアーの大切さや壊れない体づくりをするためには、監督、親、子供自身は何をすればいいのか等について実技を交えて行われました。会場に詰めかけた百人余の親子は興味深く聞き入っていました。

北中城高校が新人大会優勝を報告


優勝旗を携え喜びの報告をした選手たち

 平成十七年度沖縄県高等学校新人大会で、北中城高校が二種目優勝しました。
 十一月二十四日は、喜屋武一三六校長が六年ぶりに優勝した男子バスケット部(十三人)と、七年連続優勝の男子自転車部(四人)を伴い村役場を訪れ、新垣邦男村長に優勝の報告をしました。
 村長は「優勝おめでとうございます。皆さんに北中城をピーアールしていただき、私にとってこの上ない喜びです。これからも北中城を全国に発信して下さい」と選手たちを激励。バスケット部の下地恵輔キャプテンは「村立体育館を貸してもらってありがとうございます」と感謝。自転車部の内間康平キャプテンは「今年も七連覇できました。来年は選抜もあるのでがんばりたい」と抱負を述べました。

菊花展示会 彩風の杜デイサービス


丹精込めた菊を前に楽しく過ごす

 十一月二十五日、沖縄中央療護園で菊花展示会が行われました。彩風の杜デイサービスに通うみなさんが一年かけて丹精込めた菊の玉造が中心です。展示会には、二十人余の利用者と職員の他、川上辰雄教育長や比嘉一郎村議会副議長もお祝いに訪れました。比嘉榮園長は「展示会は今年で五回目、来賓を迎えて盛大に行うことができ喜んでいます。見てくれる人がいるからさらに意欲的に取り組むことができます。村長賞や議長賞は励みになります。楽しい一時を過ごしましょう」とあいさつ。園芸指導した伊佐眞治さんは「全沖縄菊花展でも五点が入賞。甲乙付けがたい作品ばかり。皆さんの努力と職員の皆さんの協力のおかげですね」と講評しました。

村史「新聞資料編より」 コラム

「琉球処分」後の人口増加と士族の割合

表1
中城村地域で増加率40%をこえる村
村 名 
津 覇 
久 場 
 泊  
和宇慶 
伊 集 
浦 石 
屋 宜 

増加率
77.7%
64.2%
47.5%
45.6%
45.5%
44.9%
40.8%

表2
北中城地域で増加率が40%をこえる村
村 名 
比 嘉 
仲 順 
島 袋 
喜舎場 

増加率
100.6%
95.2%
51.1%
41.4%

 一八八〇年(明治十三)の中城間切の人口は一二、八四六人であった。それが一九〇三年(明治三十六)には一七、六一七人に増えた。増加率は三七・一%で、全県平均の三四・七%より二・四%高い。同じ時期に、西原間切は二四・三%、浦添間切は二三・二%、宜野湾間切は三〇%増えただけであったから、周辺の各間切に比べて中城間切の人口の増加率は高かったことが分かる。
 現在の中城地域と北中城地域を比べると、中城村地域は一八八〇年の七、一九二人から一九〇三年には一〇、一七八人に増え(増加率四一・五%)、北中城村地域は五、六五四人から七、四三九人に増えていた。(増加率三一%)。中城地域でかなり人口が増えていたが、増加率が四〇%をこえる村名(字名)をあげると、表1の通りであった。
 士族人口割合をみると、久場は八一六人のうち士族は七人にすぎなかったから例外であるが、他の村の士族人口の割合は、津覇が二二・六%、泊が一三・一%、和宇慶が四五・二%、伊集が四一・八%、添石が四〇・六%、屋宜が五六・七%であった。
 泊はやや少なかったが、その他の村は士族人口の割合がかなり高かった。「琉球処分」後の世替わりの時期に首里・那覇などの都市部からどっと士族層が移り住んだことが分かる。
 他方、北中城地域で同じ期間に人口の増加率が四〇%をこえる村は、表2の四ヶ村だけである。比嘉も増加率は高いが、士族の割合は一四・七%で、中城村地域の各村に比べると、必ずしも士族の割合が高いほうではなかった。島袋も士族は一人も住んでいなかった。喜舎場は、士族の割合は二〇%であった。この地域では、士族が流入してきたというよりも、百姓が他から移って来たことを特徴として指摘することができる。もう一つの特徴は、人口の増加率が二〇%以下の村が四つもあるということである。増加率の低い順にあげると、大城が二・三%、安谷屋が六・八%、渡口が一二・五%、瑞慶覧が一六・三%であった。大城には士族は一人もいなかったし、渡口には一人だけすんでいた。士族の割合は、安谷屋が一五・九%、瑞慶覧は一八・三%であった。百姓だけが住んでいる村でも、人口が急増した村と、ほとんど増えない村があったし、士族が多少住んでいても、人口はあまり増えていない村もあった。人口増加をくらべると、北中城地域と中城村地域とでは、このようにかなり違う様相を呈していた。 
(仲地哲夫)


< 前のページ | トップページ | 次のページ >