村史「新聞資料編より」
コラム
移民・旅立ちの見送り
中城村(戦前)の移民は、一九〇三年(明治三六)に二人の若者がアメリカに渡航したのがはじまりである。その翌年から堰を切ったように、多くの若人が、ハワイやその他の国々に移民として旅立って行った。当時、外国の情報は殆ど皆無だった。外国にいくことに多くの不安もあったが、沖縄にいては収入の道も殆どなかったので、お金を儲けたい一心から移民として出ていった。
旅立ちの模様を、人口に比べて割合多くの移民を送り出した荻道、大城を例にあげてみる。
旅立ちの日、村(字)の多くの人たちが、村はずれのサカンケー(十字路になっている)まで見送って別れを惜しんだ。親戚や友人が普天間まで同道し、普天満宮に参拝し航海安全と健康を祈願した。
船出の当日、出港予定時刻になると、村の年寄りやおばさんたちが、那覇港沖から残波岬まで一望できる、インナーイモー(荻道の南西にある小高い丘)の頂上に集まった。那覇港沖に船が見えたら、ハーメーチヂン(小太鼓)を打鳴らしながら、「だんじゅかりゆし」の歌を唄って航海安全を祈願した。また、たまには、青い松葉を火にくべて煙を立ちのぼらせ「こっちが荻道だよー、見えるかー」と叫ぶ者もいたという。船が残波岬の彼方に消え去るまで唄いつづけて見送った。純朴な農村の心温まる光景だった。
(安里永誠)
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