◆ 原山勝負 ◆
原山勝負は、明治の中頃に農事奨励のため設けられた、農村の年中行事の一つであった。勝負の審査の対象は、農産物の生産高、家畜の飼育状況、田畑荒廃地の有無、田畑の除草の状況、農道の管理状況、溝の浚渫、堆肥・厩肥の管理、ねずみ駆除、ヤハタ草(ムラサキカタバミ)の有無、道に面した竹を結わえてあるか、屋敷の清掃等についてであった。違反事項について、減点または罰金が科された。審査は、役場吏員や区長などが、2日がかりで村内を巡って行った。
審査結果の差分式(授賞式)の会場は、大正時代までは瑞慶覧馬場で、昭和の5、6年頃からは記念運動場(中城城跡の東側)となった。1位の字には優勝旗(大正5年制定)、表彰状、賞品(主にお膳)が授与された。当日は余興として、沖縄相撲や競馬が催され、村内外から多くの見物人が集った。大正5年秋の原山勝負には、5,000人余の観衆があったという。会場では、てんぷら、駄菓子などが売られ、子どもたちにとっても楽しい1日となった。
原山勝負は、大正の頃まで、春と秋の2回開催されていたという。
新聞資料によると、明治38年春期の中城間切の原山勝負は、3組に分けて勝負している。南組(伊集・和宇慶・津覇・奥間・安里・当間・新垣)、中組(屋宜・添石・伊舎堂・泊・久場・熱田・和仁屋)、西組(島袋・比嘉・仲順・喜舎場・瑞慶覧・安谷屋・荻道・大城)となっていた。賞品は、1位と2位には泡盛があり、負けた組は罰として詫の礼をさせられた。(安里永誠)
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