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 第4回英語ストーリーコンテスト本大会

コンテストに参加したみなさん
 十二月十三日、村立中央公民館で英語ストーリーコンテストが行われました。主催した村教育委員会の川上辰雄教育長は「これまでの練習の成果を精一杯発揮してください」と発表者を激励。新垣邦男村長も「英語が話せたらかっこいいなと思います。外国の友達と話すことで、世界が広がると思います。緊張するでしょうがゆっくり発表してください」と激励しました。
 コンテストには小学生(四人)、中学生(四人)、高校生(三人)が参加し日頃の英語学習の成果を身振り手振りもいれて発表しました。
 選考の結果次のみなさんが最優秀賞に決まりました。
小学生の部 中田裕和(三育小六年)
中学生の部 兼次陽好(北中城中三年)
高校生の部 稲福穂高(北中城高三年)
 生活発表会(幼・保)
 十二月十七日は、喜舎場保育所、屋宜原保育所、百登保育園などで生活発表会が賑やかに晴れやかに行われました。どの会場も父母や祖父母など保護者が大挙して押しかけ、かわいいわが子・わが孫に愛情あふれる拍手をおくりました。園児たちもそれに応える精一杯の演技を披露。北中城幼稚園も例に漏れず多くの参観者が訪れました。園児たちは、日頃の学習の成果を歌や楽器、遊戯、創作ダンスなどでいきいきと表現し、楽しく発表していました。  中には、演技中に家族に笑顔で合図する子の姿がなんとも愛らしく観客もついにっこり。
本番も上手にできました。最後のポーズもしっかりきまりました。
 ふれあい福祉交流会「第2回ボッチャ大会」

さぁ〜行くぞ 神谷さん親子も仲良く
 十二月十七日、村社会福祉協議会(安里昌次郎会長)と村身体障害者協会(上原興一郎会長)が共催して「第二回ボッチャ大会」を 県総合運動公園内のレクリエーションドームで開催しました。同大会は「ひとりでも多くの人が障がい者問題を身近なものとして考える。地域社会にノーマライゼーションの意識を広げる。障がいを持つ人と待たない人との交流で連帯意識と福祉の輪を広げる」などを期待して実施されました。三人一組のチーム対抗で老人クラブや中学生、家族チームなど二十四チームが参加しました。対戦の結果は次の通りです。
優 勝 喜舎場熟年クラブチーム
準優勝 まことチーム 
特別賞 城間美早紀チーム 太陽の町チーム
盛り上げたで賞 村議会議員チーム 沖縄中央療護園チーム
 村交通安全母の会が寸劇で飲酒運転撲滅をアピール
 交通量や飲酒の機会の多い年末・年始の交通事故を防ごうと「ちょっと一杯つぐない一生」をスローガンに、年末・年始の交通安全県民運動が平成十七年十二月二十一日から平成十八年一月四日までの十五日間実施されました。
 運動の初日に村立中央公民館で行われた宜野湾地区交通安全運動出発式で、村交通安全母の会(村婦人会・比嘉洋子会長)が「飲酒運転撲滅」に向けた寸劇を披露し交通安全をアピールしました。また、村青年連合会の名幸真理事務局長(会長代読)が「地域住民が一丸となって飲酒運転を追放するため、基本的な交通ルールを守って飲酒運転しない運動を徹底し、交通事故防止に努める」と交通安全宣言を読み上げ大会を閉じました。

思い切った「寸劇」で飲酒運転撲滅をアピール
 第27回北中城駅伝大会

黄色いたすきで交通安全もアピール
 北中城走ろう会(仲泊兼信会長)主催の駅伝大会が十二月二十五日午前九時三十分開始で行われました。「村民、各職場の親睦と友情を深め、積極的な体力づくりと実践を日常生活に定着させること」が目的ですが、大会要項には、これまでの優勝チームや各区間の記録なども収録された本格的なスポーツ大会です。走路は、一区二キロ、二区四キロ、三区二キロ、四区四キロ、五区六キロ。十一チームが参加し健脚を競った結果、セイキモータースチームが一時間八分二十九秒で優勝。
 大会で目を引いたのは、オブザーバー参加で他チームを圧倒した北中城中学生チームとカナダから留学中の仲泊兼貴さんを激励するために叔父や従兄弟で編成した仲泊ファミリーチーム。各チームとも沿道で声援をおくる家族のあたたかいまなざしが印象的でした。
 北中城村農産物フェアー
 北中城村農産物フェアーが、十二月二十五日・村役場の駐車場で開催されました。同フェアーは、村役場や村農業委員会、JAおきなわ北中城支店や野菜・花卉生産者など九団体で構成する実行委員会が実施しています。地産地消を目指し、生産者が直接販売しているので消費者が安心して購入できると好評です。野菜や花の「選び方のコツを教えて」から会話も弾み、そのやり取りがなんとも笑ましく昔懐かしい雰囲気。無駄をなくそうと、フリーマーケットも同時開催され再利用の意識も広がります。師走の第四日曜日の開催がほぼ定着し、常連客も年々増える傾向です。今回も早朝から安くて新鮮な花や野菜を求める人たちで賑わいました。
花や野菜が飛ぶように売れています

村史「新聞資料編より」 コラム

明治時代の尾類(遊女)と雇人

1883年当時の中頭地方各間切の身売人
(尾類と雇人)

間切名

尾  類
雇  人
北谷間切
不 明
不 明
読谷山間切
約112人
約140人
具志川間切
8人
42人
与那城間切
勝連間切
不 明
不 明
美里間切
14人
不 明
越来間切
約30人
約20人
中城間切
多 数
多 数
西原間切
約220人
約150人
宜野湾間切
約150人
約130人
浦添間切
約190人
約300人

 沖縄県は、一八八二年(明治十五)三月二十三日の「告諭」で人身売買を禁止した。それは、「人身売買によって損失を蒙るようなことがあっても、裁判所としては貸借上の訴訟は受け付けない」との内容であった。しかし、一片の「告諭」で人身売買の風習を無くすることは無理であった。
 岩村通俊会計検査院長は、翌一八八三年一月下旬から二月中旬にかけて、沖縄本島の中頭・国頭両地方を巡回して、各間切で吏員に身売について尋ねている。次の表を見ると、中頭郡には「尾類」(遊女)や「雇人」(シカマ・イリチリ)が多数いたことがわかる。表中に「不明」とあるのは、岩村院長が身売について質問しなかったことを意味している。中城間切の場合は、岩村院長と吏員との次のようなやりとりから、身売人が「多数」いたことがわかる。
院長「身売人ノ多分アルハ如何ノ訳ナルヤ」
吏員「貢租ノ不足ニテ売申候」
院長「困窮ノ者ハ隣間切ニモ有レトモ此間切ニ限リ身売 ノ多キハ何故ナルヤ」
吏員「従今三十年前凶作旱魃等ニテ不作致シ困窮ニ陥リ、爾来年々ニ増加シ今 日ノ様ニ相成レリ」
 身売人の半数は「尾類」であった。右の表の「雇人」とは、次のやりとりを見ると、「シカマ」「イリチリー」と称されていた人々であったことがわかる。
 問「何歳頃ヨリ出ルヤ」(何歳頃 から他家の雇人として働きに出たか、という意味)
 答「先ツ十五歳位、牛馬ノ飼草ヲ刈取時分ヨリナル」
 問「一人ノ身代金ハ大概幾許ナル ヤ」
 答「弐拾円乃至三拾円ナリ」
 当時は、貧しい農家の子どもらが、借金の利息のかわりに他家で働いていた。この時期には米一俵の利息の代わりに、男子が月に一度ずつ、女子が二度ずつ、貸し主の家で働いていたという。利息のかわりに、月に何日ずつときめて他家で働く人のことを「シカマ」と呼び、大金を借りて毎日他家で働くひとを「イリチリー」と称していた。
 なお、「沖縄県史」第十四巻に「琉球見聞雑記―明治廿一年沖縄旅行記事―」が収められている。その中に「娼妓ノ話ヲ伝聞ノママ記サン。当地ニテ娼妓ノコトヲ〈ヅリ〉と云。〈ヅリ〉トハ尾類と書クヨシ。…那覇ノ人口ハ明治十六年一月一日ノ調ニテ弐万四千弐百四拾九人(五千九百廿九戸)ナルニ、其内尾類ハ三千人モアル由ニテ頗ル平均ヲ失ヒタルモノヽ如シ」と紹介されている。
(仲地哲夫)


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