広報北中城10月号

e-book|めんそーれ沖縄 外国人観光客接遇マニュアル page 7/16

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概要:
外国のお客様の、満足につながるヒントがきっと見つかる!業種別の接遇場面、外国人観光客へのインタビュー等の動画を使って、具体的な接し方やリスニング、発音の学習に役立ててみてください。

長崎平和学習に行って二年古謝健人平和学習に行って、原爆の事や被爆者の思い等を深く知る事ができました。長崎では原爆に関係のある資料館や建物を見て回ったり、直接被爆者の方の講話を聞いたり、同じ「青少年ピースフォーラム」で参加している人達と交流したりしながら原爆について学んでいきました。僕がこの講話で一番心に残った言葉は、八木さんが最後に言った、「長崎で最後の被爆者が亡くなりました」というニュースがいつか流れるという言葉です。この言葉を聞き、被爆者の言葉を聞ける最後の世代になるかもしれない僕達が原爆の恐ろしさや、平和の大切さについてこれから伝え続けていかなければならないなと思いました。この学習で学んだ被爆者の方々の平和に対する強い想いをまずは学校に伝え、それから地域の人、沖縄全体、他県の人へ平和のバトンを繋いでいき、平和の大切さをこれからも繋いでいけたらいいなと思いました。平和学習を通して二年名幸大輔原爆投下から68年が過ぎました。その長いようで、とても短い期間の中で、長崎は被爆した地とは思えないほど復旧をとげており、原爆の傷跡もほとんど消えていました。ですが、原爆で被爆した方々や戦争を体験した方々の心の傷は消えていませんでした。そして、この68年間の復旧作業という中で、今もなお原爆で苦しむ人々の姿がありました。私が一番心に残った事は、平和会館で行われた青少年ピースフォーラムでの八木道子さんの講話です。八木道子さんは自らが原爆で被爆したのにもかかわらず「これからは若い世代の人もこの原爆の恐ろしさについて、後世に語り継いでいかなければならない」ということを、とても力強く話してくださいました。この言葉に、私自身もすごく共感し「未来を担う私達が原爆について後世に語り継いでいく事が、私達に課せられた使命ではないのか」と思いました。長崎平和学習の旅8月7日から10日までの4日間、北中城中学校の2年生4人が、長崎平和学習の旅へ参加しました。原子爆弾の被爆地でその痕跡を見聞し、また平和祈念式典や、青少年ピースフォーラムへ参加することにより、多くの事を学んだ参加者の感想文を紹介します。(一部抜粋)平和学習を通して二年三枝真魚1945年8月9日午前11時2分、ピカッ、ドンの一瞬で長崎の7万人もの命が、存在が消えました。たった一つの原子爆弾で。長崎・広島にしても巻込まれたのは住民、しかもそのほとんどは子供達でした。爆心地から500mしかない城山小学校に行った時、とてもそのことについて考えさせられました。城山小学校は現在、旧校舎の一部だけが残され、周りは子供達が新校舎で授業を受けています。だから城山小学校の子供達が私達にあいさつしてきた時、旧校舎でも原爆が落ちる前にはこんな雰囲気があったのかと思うと悲しくなりました。平和な世の中は私達の世代が作っていきます。そのためには今回のように長崎・広島であの夏どんな事があったのか、沖縄で私達と同じくらいの年頃の人々がどのような状況にいたのか学び今の豊かな暮らしに感謝していくのが平和への第一歩だと思いました。平和学習を通して二年喜納京花この4日間を通して、原爆はどういうものなのか、平和ってどれだけ幸せなのかを分かりました。心に残ったことは3つありました。1つ目は、学校の授業で原爆が落とされたとき耳や目が飛び出ないように押さえる練習があったことです。原爆は、爆風が1秒間で400mの速さで、1人600kgのダイナマイトをうけているぐらい恐ろしいものだと知りました。2つ目は、原爆の放射能により、白血病などを引き起こし、今でもその病気で亡くなる人がいるということです。3つ目は、原爆で火傷になって皮膚がとれても、半年たっても治らないことです。また、68年たっても汗腺が少ないため夏は苦しいということも驚きました。平和であるように長崎で学んだこと、沖縄戦の事をしっかり伝え、どんどんバトンタッチ出来るように頑張ります。2013.9.257