広報北中城6月

e-book|めんそーれ沖縄 外国人観光客接遇マニュアル page 4/16

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外国のお客様の、満足につながるヒントがきっと見つかる!業種別の接遇場面、外国人観光客へのインタビュー等の動画を使って、具体的な接し方やリスニング、発音の学習に役立ててみてください。

母子保健推進員のみなさん4月1日付けで、新垣邦男村長より母子保健推進員22人へ委嘱状が交付されました。母子保健推進員とは…健康な赤ちゃんを産み育てるために・妊産婦や乳幼児のいる家庭を訪問し保健師と連絡をとり、妊娠・分娩・育児等についてのよき相談相手となります。・村で実施されている離乳食実習や健康診査等のお知らせに伺います。安里恵(喜舎場)安里淳子(喜舎場)徳山直美(喜舎場)星山三三(仲順)☆お気軽にご相談ください。プライバシーは厳守されます。仲本寿美江(仲順)喜納秀美(熱田)東恩納恵子(熱田)比嘉栄子(渡口)前田郷美(島袋)喜納節美(島袋)比嘉初子(島袋)比嘉邦子(島袋)崎原逸子(屋宜原)與儀千代美(瑞慶覧)比嘉美佐子(石平)與儀マリ子(安谷屋)官の仕事はごみ処理、便所の設営、殺虫剤の散布、下水の宮城艶子(安谷屋)れ、それぞれの地区に住民の検察官が配置された。検察た。四月十日には、衛生管理のため四つの地区がつくらに至った。米軍は収容所の護衛に関しても重要視してい状況であった。そのためCPが増員され、三十人を数える座喜味則子(荻道)五人未満のグループに対してCP一人が護衛するというが必要であることが区長に伝達され、とくに女性は二十いた。四月二十四日、畑に出る時はCP(民警察)の護衛野菜などを収穫し、それに家畜を捕えたりして確保しての苦情や提言を聞くことを目的に開かれた。食糧は、芋・仲村智枝美(大城)の集まりがあった。集まりは米軍からの命令・伝達や住民選出された。一軒ごとに班長も選出され、毎日のように区の区域から行政と米軍からの指令を伝えるための区長が住宅には番号がつけられた。十の区域に分かれ、それぞれ収容所は二マイルにわたってフェンスに囲まれ、通りと眞榮城直子(和仁屋)ばれ、家屋の修理や建設も始まった。るようになった。十一日には建築資材二千本の材木が運糧を探し配給していたが、やがて米軍の食糧も配給され家族の雑居生活が始まった。当初は日本軍が(米軍は収容所にするため意識的に焼かなかっ隠いん匿たとくし)でたの食数神谷みゆき(団地)収容された住民は「家族記録カード」に記載され、民家千四十四人、子ども五千三百九十三人)と膨れ上がった。人、十三日に一万七百八十五人(男千三百四十八人、女四されて島袋に到着した。五日には六千人、六日には九千で米軍の捕虜になった住民二千から三千人が米兵に連行生田幸子(美崎)する村民であったに違いない。同日には北谷・宜野湾など住民約二百人を発見する。二百人は島袋字民を中心と介トすーるマ。ス・マーフィン中尉が島袋に到着した四月四日、ここでは島袋収容所の概要と様子を「戦闘日誌」から紹四月四日、閉鎖する七月十二日の約三カ月間機能した。な難民収容所であった。島袋収容所は開設が一九四五年島袋収容所は、米軍が沖縄戦初期に開設した本格的「戦闘日誌」にみる島袋収容所マーフィン資料「戦闘日誌」解説より抜粋『北中城村史第四巻戦争・論述編』北中城村史だより巳水無月4 2013.5.27